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  • 杉本 和巳

杉ちゃんの履歴書 (2021.5.25 更新)



第1回 東京の下町。上野の北の文京区駒込病院で杉本秀雄と貴美子の3人目の子ども、女男男の順の次男として、昭和35 (1960)年に生まれた。午前中の生まれらしい。

 和巳の命名は秀雄の父母、善作(明治32年生まれ)とろく(明治37年生まれ)がしたという。実際、恥ずかしながら、就職まで、「和己」と思い込んでいて、己の回りに和を作るのが使命と感じていましたが、戸籍謄本を取り寄せて、「和巳」を再認識して、「以和為貴(※)」を「へびの如く粘り強く和をつくる」が使命と進化しました。

※ 「以和為貴」…和をもって貴(とうと)しとなす

第2回 大叔父の高山晃は早稲田大学政経学部の大先輩。中京TVの副社長で昭和天皇・皇后両陛下の初の記者会見に出席し「皇后陛下にお伺い致します…」と質問した。私の学生時代の目標だった尾張との縁を作った人物。

 その大叔父が杉本の先祖を調べ、天皇家の伊勢神宮参拝御行幸管理の重責を担っていた前川姓と繋がる。五代前の奈良の庄屋杉本善五郎は、世継として娘小糸の婿養子に松阪の前川新之助を迎える。その夫婦の次男である祖父善作が大正時代に上京し上野の北の千駄木で八百屋を開業。父秀雄は大学在学中の終戦直後に稀有な日銀借入を獲得し繊維業の靴下製造販売を創業。

 ~江戸っ子は三代目からと言われるが~S54年早稲田大学1年時衆参ダブル選挙のアルバイトを経験。政治はお金がかかる事を認識。

 S58年東大法学部卒のエリートが居並ぶ民間企業の雄日本興業銀行に入行。かくして政治の「せ」の字もない家系の私は、まずは銀行のビジネスマンとなりました。

第3回 小学2年生で交通事故~横断用の黄色い旗をしっかり握ったまま左右の膝っ小僧を擦りむいた(軽症)。救急車来たがその前にぶつかったタクシーに乗せられて救急病院へ。4年生で前髪の長髪を注意されていたが「カッコ良いのがなぜ悪い」と抵抗して担任の先生に切られそうになる。今思うと、まあ、教師によるイジメだったのかも? 当時は反発心強く気づきませんでした。

6年生で『政治家になってスイスのような永世中立の平和な国をつくりたい』と卒業文集に書きました。今でもはっきり覚えていることは、3年生の時に、衆議院議員総選挙があり、母に「70代の二人には入れないで、若い人に入れて」と頼んだこと。今でも明快に覚えています。

皮肉なことに、今ではその人が高齢になっても地域の自民党で院政のように権力を振るっています。

第4回 中学は、東京の私立早稲田大学に連なる早実に入学した。

慶応がハイカラでカッコ良いと狙っていたが、縁はバンカラで泥んこ臭くて庶民的な早稲田だった。やはり大切なことは校章の稲穂のように「実る程、頭を垂れる稲穂かな」ということであったのだろう。

 中高大と一貫してテニスを体育会運動部でプレーし、厳しい上下関係と礼節それに時間厳守の「定刻主義(笑)」を植えつけられた。連帯責任で大学在学中に同期らと二度坊主刈りとなった。選手として戦績は今一つであった。先輩・後輩の数人は日本代表のデビスカップ選手となった。

 国会に目を向けると中学と大学院の一年先輩が齋藤健元農水大臣。高校の後輩に萩生田光一文部科学大臣らがいる。齋藤先輩とは大学院時代以降勉強会でともに学ばせていただき、歴史観で洞察する力を教わった。不思議なことに、中高時代は授業中ねむくなることはほとんどなかった。とくに社会科学の科目では。また身体も健康で皆勤賞を頂戴した。健康な心身を授けてくれたご先祖様と両親に感謝であります。

第5回 中学から大学までテニスを体育会で10年間貫きました。但し、私には日が当たる活動分野ではなく陰徳を積む場でした。中学の大会では幼少時から始めていた慶応ボーイに歯が立たず終い。彼らは今上天皇陛下が浩宮さまの時代の練習相手でした。高校時代は全国中学優勝者の同世代のエースらが並び、私はリーダーシップを緩やかに発揮する役で全国高校総合体育大会も選手4人枠の5番目の選手兼ベンチキャプテンとして出場。大学時代も先輩方は全日本・全日本学生選手権出場者がい並び、私は黒子の球拾いやクラブ運営の役回りの裏方・縁の下の力持ちに終始。連帯責任で在学中2度坊主刈りとなったことが懐かしい(笑)。

 一方、政治への関心が脈々と心の底流にありました。1979年大平総理急逝時の衆参ダブル選挙の機会に遂に政治の世界に(一時)飛び込みました。当時東京下町を地盤とした政治家4代目の鳩山邦夫氏の2期目の総選挙(同時に3代目の鳩山威一郎氏の参院全国比例選挙)を1ヶ月半泊込みで選挙を経験。当時は「5当3落」と言われ=「5億円で当選し3億円で落選する意味」=お金のかかる選挙を目の当たりにしました。すごい人数が電話かけをする現場や私の1ヶ月半の報酬が破格であったこと等から類推し、八百屋の孫で靴下製造の中小企業経営者の息子の庶民感覚の私にとっては、政治を一時諦める程、浮世離れした政界への縁遠さを身をもって体感した日々でした。

第6回 政治の世界が浮世離れしている事実を垣間見た私は大学2年の時に体育会テニス部に復帰しました。そしてあらためて、新入部員待遇からやり直して、上下関係、礼儀作法や時間厳守など社会人の基礎を叩き込まれました。そしてその後は縁の下の力持ち的な役割で有力選手の精神的アドバイザーや厳しくも優しい先輩部員として4年生の卒業まで活動しました。

 並行して4年生の夏から就職戦線が動き始めました。私は世界を股にかけて働きたいと総合商社の業界を中心に銀行、電力、広告代理店などの多様な業界の有力各社の面接を受けました。その中で会う方々が魅力的な人物ばかりの当時の金融界の雄であった日本興業銀行(以降、興銀)に惹かれていきました。そして世界を股にかけたり、業界再編など産業政策に携われる、かつ東大法学部卒業の俊秀な人物たちと競えて切磋琢磨できることも展望しました。

 結局、厳しくも希望を感じる幾重もの面接を経て、内定を就職解禁日の10月1日に興銀から頂戴しました。すなわち銀行界のビジネスマンとして社会人のスタートを切りました。因みに、高い評価をしてくださっていた商社に入社していたら、電力会社に入っていたら、広告代理店で仕事をしていたら、恐らく政治の方向に再び舵を切ることはなかったと感じています。それだけ、人を大きく幅広く育ててくれる土壌が興銀にあったのだなと今沁々(しみじみ)と感じています。

第7回 社会人として最初の仕事は日本興業銀行本店外国為替部で始まりました。

 外国為替部では輸入課勤務。先生にあたる指導担当は、東大法学部卒業の将来頭取になりそうな非の打ち所のない先輩(今は辣腕弁護士)でした。先輩からは、着任早々に毎朝ロンドンとニューヨークの外国為替市場の状況を、9時の市場が始まる前に取引先の大手商社や石油化学会社に電話連絡する仕事を命じられました。輸入に係わる貿易の外国為替担当でしたので、資源のない日本の電力会社や石油会社の原料である石油や石炭などの輸入の貿易での円とドルの交換、その資金の送金と場合によってはそのドル資金の短期貸付けの仕事へと展開して行きました。金額は1取引10億円単位で、瞬間に値段を決める緊迫感のあるタフな仕事で、また世界経済の荒波を直に感じるような仕事でした。外国為替部内では、輸入の仕事のほかに総務・企画部門で裏方の仕事から頭取出席の役員会資料となる実績数値管理や相場見通しの概説などの作成の仕事をしました。

 要は社会人最初の3年半は、1ドル240円から170円の円高となっていった時代に経済の真っ只中にいました。今でも昭和60年9月22日のプラザ合意の日は明確に覚えています。そしてある日、部長から「来月から本店人事部へ行ってもらうよ」と青天の霹靂の辞令を受けることになりました。

第8回 入社4年目、突然人事部への異動でした。物理的には本店7階から10階への引越しでしたが、東京の南西部の恵比寿研修所の当直の仕事も伴いました。仕事は研修が主、採用が従でしたが、どちらも地道に取り組みました。採用では、知らない人はおそらくいない楽天社長の三木谷浩史さんの採用の最初の取掛かりをつけました。

 あれは確か夜中の2時頃、メモに一橋大学テニス部三木谷とありました。私はテニスの縁を感じ即座に電話をかけました。彼は寝ぼけ気味に「明日は試合だ。既に△△銀行に内定した。」との応えでした。私は就職は将来への節目だから試合が終わってからでも寄れば良いし、同業他社をみておいた方が良いと社会人の先輩として本音を伝えました。結局彼は興銀に入り今日の結果となりました。

 研修の仕事では英語教育に力を入れました。新入社員には全員入社前に国際テストを受けてその成績を事前申告してもらいました。入社後の研修では、15室にクラス分けしてネイティブイングリッシュの先生からレッスンを受けてもらいました。

話は三木谷さんに戻りますが、彼のクラスは□□番目の一番端の部屋でした。それが大いなる発奮材料を提供した事になりました。結果ハーバードビジネススクールに留学し、彼の会社の社内用語は英語となりました。余談ですが、プロ野球の楽天イーグルスやJリーグのヴィッセル神戸のイメージカラーがえんじ色なのは留学先の影響です。

 研修の仕事では、市場感覚の養成と適材の発掘を目的に外国為替ディーリング研修を作りました。社内外から評判となり参加希望が殺到しました。当時は極秘でしたが、為替介入の当事者の日銀担当者や大蔵省の介入責任者も参加しました。今日の外資系のトップ数名も社内の研修に手を挙げ、結果外国為替の世界に飛び込んだ方々です。

 人事部にはまる4年勤務していました。同時期には海外留学も目指して、夜は週2回(平日1日と土曜日)英語学校に通い続けて、海外在住経験のないハンディキャップをカバーしました。そして晴れて社内の留学生試験にチャレンジして合格し、海外から日本を見つめる貴重な機会を得ることになりました。

第9回 帰国子女であった同期らは、2年間の留学経験をして職場にどんどん戻って来ていました。小学校と大学の同期、銀行の一期下の藤川大策君(外資系証券会社社長)もその一人でプリンストン大学院から帰って来ていました。私はその間に人事の研修の仕事をしていて、人前で話すことが好きだという自分を再発見していました。また世の中は、細川護煕熊本県知事が新しい政治の流れを生み出す『鄙(ひな)の論理』を著し、地方からの改革の流れ、自民党に代わる政党への胎動が起き始めていました。

 私は政治家の家系でない「八百屋の孫、靴下屋の息子、サラリーマンの本人」がお金が無くても政治の世界で活躍出来る世の中に変わる兆しを感じはじめていました。ある昼休みランチを共にした藤川君になんの拍子だったか「俺、オックスフォードとハーバード行って実力をつけて政治家になるよ」と大言壮語を言ってしまいました。「維新」の「有言実行」ではありませんが、その言霊が私の背中を押し続けました。

 英語の勉強に励み、銀行内の留学生試験に合格し、その上で銀行の1年先輩でオックスフォード大学院卒の高田創氏(先日までテレビ東京・テレビ愛知のヨル11時のニュース番組「WBS」のコメンテーターをつとめていた)からの助言もあって、相応の願書を提出して、オックスフォード大学院への入学の機会を得ました。


第10回 海外の大学・大学院は卒業が大変でした。

 オックスフォード大学院は3学期制で、1学期2科目を「チュートリアル」というマンツーマンの授業を5科目選択して学びました。経済分野2科目は図表や理論は世界共通でわかり易かったですが、政治社会分野3科目は欧州の政治思想史の詳細を知らないこと等と、担当教授が現地のイギリス人ですら聴き取れない程の超早口であったため、難解でした。

 卒業試験は3学期分まとめて最後の3学期目の期末に1課目につき3時間の英語書きっぱなし筆記試験3時間×5科目を午前午後の合計3日間で、マントを羽織り、博士みたいな帽子を被り、ボールペン1本だけ持込可。試験会場は「エグザミネーション・スクール」と言われる、年に一度試験の時だけ使うハリーポッターに出てくるような校舎で厳粛厳格に行われました。私は試験前はややノイローゼのようになりましたが、綿密な準備と動物的勘が功を奏して「あ〜この試験を受けている日本人は私だけだ。杉本がんばれ!」と自らを鼓舞したこともプラスに働いて、何とか6月に卒業証書を手にすることが出来ました。卒業試験の前の1、2月はハーバード大学ケネディ政治行政大学院への願書づくりもしました。

 イギリスの冬は午後4時頃から朝8時過ぎまで暗い、夜の長い時期で机に向かい続けました。


第11回 オックスフォード大学院で学んでいる間に世界では湾岸戦争がおきていました。世界の動きをヨーロッパからみていると、日本の海外報道が米国中心に偏向ぎみであることに気づかされました。

 当時、日本は海部総理と橋本蔵相が90億ドル(1,200億円)の拠出を決めていました。日本の新聞各紙は、アメリカは少ないと言っていると盛んに報道しましたが、イギリス議会では、日本は凄い金額を出している。それに比べてドイツは少ないではないかと議論されていました。またイギリスでは、欧州の庭先と評されるアフリカのことが多く報じられていました。当時海外と言えばアメリカだったゆえ、日本の海外への意識の発想の転換が必要と強く体感しました。


第12回 「意志は世界に通じる」との思いを胸に、湾岸戦争の最中に、ハーバード大学ケネディ政治行政大学院に直談判の為に大西洋を渡りました。当時ヒースロー空港にはマシンガンを持った軍人がそこかしこにいました。また笑い話ですが、出国管理官からハーバード大に行く許可証を見せろと言われ、直談判だから入学案内しかないと言って、それを見せて説得しました。更に余談ですが、自らの食事として持ち込んだ、自前のおにぎりは没収されました。

 氷点下10度のボストンのハーバード大学ケネディ政治行政大学院のアドミッションオフィス(入試事務局)を訪ねました。そして「是非入学を認めて欲しい」とまさに直談判をしました。また、友人の紹介を得て、1年前に入学して生徒会を務めていた斎藤健さん(元農水大臣)とも初めて出会いました。5時間程日本政治の問題点等話し合い、私の問題意識と意志をご理解頂きました。

 後で分かりましたが、斎藤健さんはアドミッションオフィスに杉本和巳を推薦して下さったようでした。


第13回 ボストンからイギリスに戻ると、アドミッションオフィスから、電話が入り、志望動機を尋ねられ、利権政治家「Politician」は日本にたくさんいるが国のために真に働く政治家「Statesman」になりたいのだと強く訴えました。「わかった」と返事を頂戴し、その後4月25日に合格通知が届きました。

ハーバード大学院では、7月には入学前のサマースクールが開かれました。経済の勉強のために数学の授業がありましたが、その中で3次元の関数の授業があり、私がX軸とY軸に加えて、Z軸を図解して黒板で説明したら、世界各国の学生が、ワッと驚いたことが…笑い話ですが…印象に残っています。

ハーバード大学ケネディ政治行政大学院では、ビジネススクールと同様に、ケーススタディなどを織り混ぜた本格授業が9月から始まりました。


第14回 ハーバードの教授陣は錚々(そうそう)たる顔ぶれでした。イギリスの労働大臣経験者のシャーリー・ウィリアムズ女史、後にクリントン政権の労働長官となったロバート・ライシュ氏、キューバ危機の名著で高名で、ハーバードケネディ政治行政大学院初代学長をしたグレアム・アリソン氏(11月の臨時国会で同氏の近著「米中戦争前夜」を引用して安全保障委員会で岸防衛大臣、茂木外務大臣に米中関係の現状認識を質しました)、ソフトパワー外交の提唱で同2代目学長だったジョセフ・ナイ氏、後にクリントン政権の日本外交防衛の第一任者と言われるカート・キャンベル氏、核問題の大家アシュトン・カーター氏。又、ちなみにオックスフォード時代の寮友フランシス・ガビン氏は現在SAISのキッシンジャースクール学長で核問題の第一人者です。今でも信じられませんが、米英のオールスターに薫陶を賜りました。

授業の中で、印象に残っていることは人事マネジメントの授業で、教授から、人材の流動性を確保し難い日本の人事システムと年金の仕組みについて90分間まるまる講義をするように言われ、頑張って作った私のプレゼンを、世界から来たクラスメイトが集中して聴き入ってくれたことです(笑)。


第15回  ハーバードの卒業試験は論文形式を選択したので日程に時間が出来ました。

論文提出後に思い切って数週間、英国ロンドン経由で東側から欧州をリュックサックを背負って巡りました。英国では偶然にも、国会開会式に向かうエリザベス女王のお姿を拝見出来ました。

欧州巡りは、東のトルコからはじまりギリシャ、イタリア、オーストリア、チェコ、ドイツ、スイス、フランス、スペイン各国の田舎を廻りました。田舎の人は皆さん気さくで優しいという共通点を確認した一方、庶民・市民の暮らしぶりは、国々で大いに異なりました。

すなわち、共通通貨ユーロ流通前の各国の物価の違いも体感しました。また、スイスでは当時から電気自動車でしか街中を走ってはいけない山岳都市チェルマットを実際に訪ねたことは環境委員会や沖縄北方問題特別委員会での、知床半島の電気自動車化提案などの質疑で活かすこととなりました。

西方見聞のあとは、米国に戻り、論文が受理されたことを確認して、無事に修士課程を修了しました。


第16回  ハーバードの修士課程を無事修了したあとは、厳しいビジネスの荒波が待っていました。ニューヨークで2週間研修のあと、ビジネス最前線の先頭に立つことになりました。すなわち、日本興業銀行本店市場営業部の配属となりました。

 毎月の日銀短観の動向から、時々刻々の世界情勢を睨みながら、外国為替市場以上の巨額取引となる国債の売買を担当することになりました。国債の売買とはすなわち一瞬にして変わる金利の世界です。担当取引先は、最大生保の日本生命や同業のさくら(現在の三井住友)銀行等でした。国債売買・金利のプロを相手に100億円、200億円といった単位の超ビッグな取引でした。

 一番記憶に残っているのは、当時の宮澤総理が法定金利だった公定歩合を引き上げると発表、国債相場が暴落し、長期金利が急上昇して、当時4%割れの3.9%国債の買い手がつかず、1時間以上取引が成立しなかったことです。市場は値付かずとなっていた中、何とか私が日本生命を説得して、200億円の取引を一機に決めました。その取引が市場メカニズムを回復させました。また同時に自分の銀行の背負ったリスクを軽減することもできました。余談ですが、当時は低金利にみえた3.9%20年国債も、今振り返れば、かなりの高金利であったわけで、20年近くの2010年代の満期までの間、日本生命はそのメリットを享受し続けていたという宝のような国債取引でした。この経験で、金利変動リスクとマーケットメカニズムの崩壊をまねく相場不成立の怖さを体感したことは、国会での質疑、殊に予算委員会や財務金融委員会での財政健全化議論などの礎となっています。


第17回  夏の定期人事異動で、2年先輩の後任として、興銀の系列で同業準大手証券会社の新日本証券(現在のみずほ証券)に2年間出向しました。期間中には、阪神淡路大震災やオウムサリン事件が発生したバブル崩壊後の時期でした。そんな中で、東海エリア(愛知、三重県)の無借金経営のトヨタはじめ、カゴメ等の優良企業、名古屋、愛知、中京、第三等の各地方銀行、一宮(現在のいちい)、尾西、岡崎、瀬戸、知多、西尾、碧海等の各信金、 JA愛知西、JA愛知北、JA安城、三重県信連、共済連等の農協系金融機関の債券投資営業(主に電話取引で年に数回顧客訪問)を担当しました。

 印象に残っているのは、中京圏は預金残高が多く運用資金が潤沢なことと、はじめてお客様に怒鳴られたことです。着任早々、御茶ノ水のオフィスのディーリングルームの電話をとったら「あるか?」といきなり言われ「どちらの銘柄ですか?」と尋ねたら「バカヤローわからんならえーわー」とガチャンと電話を切られました。取引先名も聴けずでした。唖然として当惑していると、隣の席の同僚から「それは○○信金の□□次長。口は悪いが根は優しい商売人。銘柄は△△製鋼。金額は10億円。お得意様で、瞬間蒸発に近い新規発行社債だから、○○信金の10億円分は用意してありますから、お詫び方々電話すれば大丈夫ですよ。」と言われて、即座に電話を折り返しました。

 同業(当時は銀行は国債のみの取扱い。証券会社は国債に加えて電力会社や一般企業の社債も含む全銘柄の債券の取扱い)とはいえ、銀行と証券会社の違いを肌で感じ、また、仕事の厳しさを感じるとても良い貴重な経験をしました。


第18回 再び2年後の1995年の株主総会期の定期異動で、興銀系列の新日本証券から直系の興銀証券への勤務となりました(後に両社は合併して現在のみずほ証券となります)。担当したのは国債先物取引の海外政府担当でした。シンガポール政府運用部やマレーシア通貨庁から時々刻々注文を受けました。間違えが許されない英語での注文の聴き取りとマーケットへの発注作業に緊張しっぱなしの日々でした。

 その後、同社最大の収益獲得部門の資本市場部に異動となりました。銀行がメインバンクとしてお付き合いいただいている優良取引先の社債発行営業でした。東北電力、中国電力、日本曹達、宇部興産等の電力と化学部門の企業の国内社債、外国債券発行による、いわゆる直接金融取引のお手伝いでした。

記憶にあるのは、東北電力債の発行に向けての企業宣伝で約2週間、同社副社長さんらと欧州の投資家を訪ねて回り、ロンドン、チューリッヒやフランクフルトを巡ったこと。結果、社債発行は順調に行きました。

 その仕事の前に、今となってみて、強く印象に残ることがありました。それは、出張前にお会いした当時の東北電力の理系出身の八島俊章社長の「東北電力の原発は地殻の検査をきちんとして、固い地盤の上に建てている。また女川原子力発電所のように津波の被害を受け難い高い岸壁の上に建てている。」というお言葉です。東日本大震災時に女川原子力発電所が無事だったことを知って、当時のお言葉を思い出した次第です。


第19回 加えてかなり余談となりますが、ロンドンのコンノートというコンパクトな最高級ホテルで、朝、東北電力の副社長用のメルセデス・ベンツを車寄せで待っていたら、ロールス・ロイスが次から次へと到着して、貴族とおぼしきシルクハットの紳士、ロングドレスの淑女を次々と乗せて出ていくのを目の当たりにして、これが貴族社会というものかと、驚嘆したことです。更に余談ですが、2週間、コッテリのフランス料理ばかりに胃が参ってしまっていたところ、最終訪問地のフランクフルトで冷や奴を食べる機会を得て、醤油の味の有り難さ、日本の有り難さを身にしみて感じました。

もう一つは、日本曹達(ソーダ)の株式強制転換権付社債という目新しい外国社債を発行するにあたり、10cmを超える分厚い英文契約書を国際弁護士の力を借りて作成し、外国社債発行を成就したことです。

ご存知のとおり、欧米は契約社会です。あらゆる可能性と責任の所在を明確にする慣習があります。脱線を承知で記載しますが…これは少しうがった見方かもしれませんが、私の経験からして、コロナワクチンの厚生労働省とファイザーとの契約が、日本にとって不利な条件、例えば、コロナが下火になった頃に大量に欧州から輸出され、価格はピーク時の高値で買わされることになってやしないかと疑念をいだいています。何せ内容は、契約上非公開にされていますから…といった心配をしてしまうのも、私の経験から生じるのでございます。




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